朱子学が政治・為政者のための学問になった理由
有名中学入試問題で発見する「江戸時代の日本」③浅野中学
■宋代の儒学=宋代性理学(宋学)
ところが宋の時代になると状況は一変します。仏教、主に禅宗の影響を受けるようになり、「儒教を哲学的に考えよう」となったのです。道・理・気・性などで人と世界の関係、あり方を説こうとしました。これを「宋学(宋代性理学)」と言います。
■朱子学の誕生
そしてこの宋学を集大成したのが南宋の朱熹でした。「朱子学」の誕生です。
朱熹(朱子)はそれまで「公式的な儒学の正典(カノン)は五経」とされていたものに、五経を学ぶ前に修めるものとして、新たに4つ加え定めました。それが「四書(大学・論語・孟子・中庸)」です。
これにより「儒学の正典=四書五経」となりました。
やっと「論語が聖典に仲間入り」しましたね。
更に朱熹は「四書集注(ししょしっちゅう)」を書き、「儒学=政治・道徳の学問である」としました。
■元の時代、遂に朱子学は政治・為政者の学問に
モンゴル民族によって打ち立てられた「元」は、最初は科挙(官吏登用試験)制度。儒学の四書五経を丸暗記せねば、受験レベルにすら達しない筆記試験。
特に「上級官吏」になるには時を経る中で、合格が必須となっていきます科挙制度誕生の587年・隋~1904年・清末まで、1300年以上の長きに渡り「世界最先端の画期的な試験制度&方法」だったことは特筆&注目に値します)を廃止していましたが、宮廷運営や政治に慣れている漢人の有能な官吏を得るにはやはり必要と認め、施行回数は少ないですが復活させます。
その際、科挙に使用する注釈として、「十三経の注釈・朱子学系統の注釈」の2つを採用したことにより、一気に朱子学は「科挙の学問=政治の学問」となり、朱子学の体制教学化が進みました。
そして以後、辛亥革命で清王朝が倒れるまで歴代王朝と隣国の朝鮮王朝で科挙の学問となり、ひいては日本でも江戸幕府が倒れるまで「幕府の正學」とされました。
「科挙」については次回、書きたいと思います。
■四書の「大学」は仏教の般若心経のようなもの
四書の最初に学ぶとされる「大学」は、「礼記」という大部の書の一篇です。
僅か1753字、字種は394種。400字詰め原稿用紙4枚半にも満たぬ中に、最も良く儒教の政治思想の根幹を組織的、且つ極めて分かりやすく書いてあると言われています。それゆえ「儒学の般若心経」とも評されます。
そして「五経以前の一番最初に学ぶ書物」とされたことから「儒学=朱子学の基本中の基本」とされ、極めて大切にされました。